長崎くんちの歴史
長崎くんちの歴史
くんちのはじまり
- 寛永2年(1625) 正一位諏訪三所大明神社が創建される。
(現在の松の森神社の場所)
- 佐賀の修験者「青木賢清」が、長崎で神社・仏閣がことごとく破却される状況にあることを聞き、元和9年(1623)長崎に来て、長崎の公文九郎左衛門より「諏訪大明神」「住吉大明神」「森崎大権現」の三神を譲り受け、すぐさま京へ上り、「吉田兼英」より神社再興のゆるしを得て再興。
- 寛永11年(1634) くんち始まる。
- 榊原。神尾。両奉行より「諏訪祭礼」を行う旨、お触れが出され、従わぬ者は焼き殺し、他の地方から人々を移民させるとあり、庶民は今までの罪を悔いて神社に共奉するようになる。
「青木賢清」はよろこび宝殿、拝殿を造営し、神輿を造り(諏訪・住吉の2社のみ)、お旅所を大波止の地とする。
- 9月1日 本社、お旅所にしめ縄を引く。
- 9月6日 丑の刻(午前2時頃)神輿に遷座される。
- 9月7日 朝から総町の中からクジで選ばれた11町が奉納をする
- 午の刻(正午頃)渡御、未の刻(午後2時頃)仮宮に着座
- 9月8日 お旅所に御逗留。
- 9月9日 10町が奉納し、正午に還御。
2 くんちの推移
- 正保4年(1647) 社地を玉園山に賜わる。
- 今の地(松の森のところ)が狭くなったので、玉園山の地を賜わり11月9日造営を始め慶安元年(1648)8月に仮宮がたち遷宮
634〜1654の間は、7日に11町、9日に10町で1年に21町づつ3年廻り 明暦元年(1655) 7日9日両日11町づつ6年廻りとなる。
- 寛文12年(1672) 7日9日両日11町づつ7年廻りとなる。(実施は寛文13年から)
<以後近年まで続く>
- この年に定められた順番(丸山・寄合町は毎年奉納)
- 船津町・本博多町・樺嶋町・平戸町・八幡町・麹屋町・北馬町・万屋町・西浜町・銀屋町・諏訪町
- 榎津町・西古川町・本紙屋町・新大工町・磨屋町・新橋町・出来鍛冶屋町・大村町・本五島町・今町・金屋町
- 油屋町・今石灰町・下筑後町・今籠町・今鍛冶屋町・西中町・東中町・豊後町・本下町・外浦町・島原町
- 新興善町・今下町・西築町・東上町・南馬町・大黒町・新石灰町・東浜町・東古川町・中紺屋町・本古川町
- 東築町・桜町・小川町・内中町・西上町・八百屋町・勝山町・恵美酒町・今紺屋町・伊勢町・炉粕町
- 本大工町・今博多町・本紺屋町・今魚町・本籠町・材木町・古町・上筑後町・後興善町・江戸町・本興善町
- 浦五島町・引地町・掘町・新町・本石灰町・桶屋町・大井手町・船大工町・袋町・酒屋町・出来大工町
- 宝永2年(1705) 諏訪・住吉・森崎の3社共に渡御が行われる。
- 享保元年(1716) 籠町が蛇踊りを初めて奉納。
- 安永元年(1772) 桶屋町の象のからくり時計と十二支のタレの傘鉾新調。
- 安永7年(1778) 万屋町が鯨曳きを初めて奉納。
- 寛政11年(1799) 樺嶋(かばしま)町がコッコデショを初めて奉納。
くんちの行事
6月1日 小 屋 入 り(この日からくんちが始まる)
踊り町(その年の当番町)が、この日から稽古を始めるにあたり、10月の終わりまでが無事にすむようにと参拝をする。(諏訪神社:八坂神社)
午後からは、打ち込みと言ってその年の踊り町・年番町(世話町)に挨拶に行きます。(おはやしのある町ははやしを鳴らして廻ります)
10月3日 庭 見 せ 各踊り町で
昔、長崎の町屋は間口が狭く奥に細長い構造になっていて、間に中庭がありました。10月3日、各踊り町の家々は表の格子を取り払い奥の庭まで見透せる様にして、前の間に踊りの衣装や小道具、また親戚、知人から送られたお祝いの品などをかざりました。 昔は、情緒があったのでしょうが近年のビル化で庭などは少なくなりました。
10月4日 人 数 揃 い(にぞろい)各踊り町で
踊り町の総仕上げの日。 各踊り町では、今まで練習してきた「こんな踊り」で諏訪に奉納しますということで、町民に披露をします。 (昔は、この日に踊り町の各家で知人を招待したそうで、その招待客はダラダラやって来るのでいつまでも終わらない。 そこで、ダラダラと際限なく続く事を「人数揃いの客のごたる」といったそうです。(ごたる=のようだ)
10月7日 前 日
10月8日 中 日
10月9日 後 日